トランスポット

   

医薬翻訳家 佐古絵理さん

決断力が重要な獣医師より、じっくり取り組める翻訳者へ
自身の特性を見極めてキャリアチェンジ

子どもの頃から動物が好きだったという佐古絵理さんが、夢をかなえて就いた仕事は獣医師でした。しかし、やり甲斐を感じると同時に、自分の力の限界や子育てとの両立など現実問題にも直面。そこで次に選んだ仕事が翻訳者でした。忙しいなか時間を捻出して通信講座で勉強。医学の知識を生かして、現在は医薬品関連の分野をメインにフリーランスの医薬翻訳家として活躍中です。地方在住でも、子育てで時間が取られても、翻訳者なら自分の努力次第で続けられる。佐古さんが辿ったキャリアチェンジの軌跡をお話しいただきました。

獣医師から翻訳者へ

  • 大学で獣医学を学び、卒業後は獣医師になられたそうですね。獣医師になるのは子どもの頃からの夢だったのですか?

    佐古さん

     獣医師になろうと決めたのは大学に入ってからでした。中学生のころから動物が好きで、何か動物関係の仕事に就きたいと思っていたのですが、高校生の時点では生態学を学ぶか獣医学を学ぶか決めかねていました。獣医師になるには獣医学に進めばよいのですが、野生動物と人間との共存方法が学べる生態学にも魅力を感じていました。ただ、野生動物相手の生態学は野外で調査を行うフィールドワークがメインになるので、体力的についていけるかという不安がありました。迷っていたところ、入学後に学部を選べる大学があったので、そこを受験しました。
     大学入学後まもなく、アルバイトで国定公園のレンジャーさんと話す機会がありました。自然に囲まれた仕事にはとても憧れましたが、そもそも空きが少ない上、やはり女性は体力的に難しいようでした。そんなわけで、私の場合は身近な動物の命を助けるほうが充実感を得られるのではないかと思い、獣医学部で小動物臨床、いわゆるペットを診る獣医師を目指しました。
     卒業後は札幌の動物病院で1年半ほど勤務していましたが、もっと大きな病院で知識を身につけたいと思い、実家のある東京の動物病院に転職したんです。そこでは産休をはさんで5年ほどお世話になったのですが、尊敬できる獣医師や飼い主さんと出会うことができ、とてもいい経験ができました。

  • 獣医として充実した仕事をされていた佐古さんが、どのような経緯で翻訳者を目指すようになったのですか?

    佐古さん

    獣医師の仕事

     向上心を持って転職した病院でしたが、しばらくすると獣医師としての自分の力に限界を感じ始めてきました。医師も同じだと思いますが、病気もさまざまなら、飼い主さんもさまざまです。治る病気や治らない病気、ささいな症状でも頻繁に通う飼い主さんや経済的余裕がなくて最善の治療を選択できない飼い主さん。実際に獣医師になってみて、それぞれのペットの治療法を決めるときに獣医師が考えなければならないことの多さを実感しました。
     そんなころ、副院長先生にある文献を訳してくれないかと頼まれ、勤務の合間に翻訳をすることになったんです。家に帰ると自炊する気力もないような生活だったのですが、不思議と翻訳は仕上げることができました。それがきっかけとなって、ある翻訳会社が開いていた通信講座を受講するようになりました。
     獣医師として、一日に数多くのペットを診察したり、緊急事態に対処したりするには、決断の瞬発力が必要です。以前から興味のあった翻訳の勉強を始めてみると、納期までに情報を収集する時間があり、しかも調べればある程度自分を納得させることができる翻訳という仕事のほうが、自分には向いているのかもしれないと考えるようになりました。

  • 英語はもともと好きでしたか?

    佐古さん

     そうですね、高校生のときには英会話教材を独習し、大学生になってからも別の教材を学んだりしていました。獣医学部で薬理学教室に所属してからは、学生が毎週持ち回りで薬理学テキストの英語版を訳して発表していたのですが、私は「ぜったいわかりやすい日本語に訳すぞ!」という意識でやっていました。
     そんなふうに、昔から自分で決めたテキストでこつこつ勉強することが苦ではなかったので、通信講座で学ぶのは性に合っていたようです。ただ、なにしろ仕事が忙しかったのでやれるときに課題をやるという感じで、獣医師を続けている間は復習も十分にできないような状態でした。

マイペースでできて、子育てとも両立しやすいと思ったので、通信講座を選びました

  • 具体的に獣医師から翻訳者への転向を考えたのはいつですか?

    佐古さん

    通信講座 実務翻訳<ベータ>のテキスト

     子どもが生まれると、子どもの急病で保育園から呼ばれることが多くなりました。また、子どもから風邪をうつされて休むことも増え、周囲に迷惑をかけずに仕事がしたいという思いが強くなったんです。そこで夫の仕事の都合で愛知県に引っ越すことになったときに、7年間務めた獣医師を辞め翻訳者を目指すことを決意しました。仕事を辞めて時間ができたので、さらに本格的に勉強しようと、フェロー・アカデミーの通信講座を受講し始め、入門「翻訳基礎<ステップ24>」から、初級「実務翻訳<ベータ>」、中級「ベータ応用講座「メディカル」」まで受講しました。さらに2年後、西村多寿子先生の「マスターコース「メディカル」」を受講しました。

  • 通信講座を選んだ理由は何でしょう?

    佐古さん

     マイペースでできて、子育てとも両立しやすいと思ったので、通信講座を選びました。それに通学講座を開講している学校は、大都市にしかない場合が多いので、全国どこに住んでいても受講できるのも魅力的でした。
     難点といえば、モチベーションを維持しにくいことでしょうか。私の場合、「いつでもできる」と思っているうちにいつの間にか提出締切日の間近になったり、中だるみの時期にそのままやめてしまおうかなと弱気になったり……。通学していれば、頑張っている仲間から刺激をもらって持ち直せることもあるのではないかと思います。そこは意思力が必要ですね。

  • 通信講座以外には、どんな勉強をしましたか?

    佐古さん

     読み書きの能力を高めるには聞く・話す能力も並行して高めるとよいと耳にしたので、並行して一般の英語ヒアリング教材で勉強しました。また、通信講座は和訳がメインだったので、英訳はテキストを購入して独学しました。

  • 翻訳者としての最初の仕事はどのようにして得られましたか?

    佐古さん

     フェローの通信講座「ベータ応用講座「メディカル」」までを修了した後、アメリアの情報誌の「定例トライアル<実務>メディカル」に挑戦してクラウン会員の資格を取得しました。獣医師を辞めてから2年くらいの頃です。独学していると自分の実力が仕事をできるレベルかどうか判断するのが難しく、「この程度で応募してよいものだろうか?」と悩んでなかなか翻訳会社のトライアルに応募できなかったのですが、クラウン会員になれたことで挑戦してみようと思えました。とりあえず獣医師時代に通信講座でお世話になっていた翻訳会社に連絡してみたところ、トライアルを受けさせてもらえることに。無事合格し、以来7年以上おつきあいが続いています。
     こちらの翻訳会社からは、医療機器メーカーのニュースレターなど、比較的枚数の少ないものを中心に受注しました。その後、アメリアなどで求人を探して何社かトライアルを受けました。そのうち1社からは現在も副作用報告の和訳の依頼をいただいています。なかには、トライアルに合格しても結局依頼が来なかった会社もありますし、他の会社からの依頼と重なり仕事をお断りしている間に疎遠になってしまった会社もありますが、おかげさまで今は順調にお仕事をいただいています。

  • これまでに、どのような分野の仕事をメインにしてきましたか?

    佐古さん

     最初は、私の経歴を考慮してか、獣医学の文献や農学・畜産関係の仕事の依頼が多かったですね。でも、畜産はともかく、農学では植物関係になるとわからない言葉が多くて、時間がかかる割に満足度の低い出来になりがちでした。これなら医学分野の方がまだ自信を持って訳せると感じるようになりました。
     そんな時、翻訳会社から「どのような分野を受注したいか」というアンケートをいただきました。そこで「治験関係」「医薬関係」と希望を出したところ、徐々にそのような仕事が増えてきて、現在は医薬品関連の仕事がメインとなっています。
     あとから思えば、せっかく納品時にメールをやりとりしているのだから、「医薬関係の翻訳も手がけていきたいと思っております」とひとこと添えておけばよかったのかもしれませんね。

  • 医薬品関連というと、具体的にはどのような内容のものですか?

    佐古さん

    佐古さんの仕事場
    佐古さんの仕事場。壁に貼ってある子供が作った折り紙やフィギュアが心を癒してくれる。

     副作用報告書、治験薬概要書や添付文書 、医薬品承認申請関連資料などの医薬品関連文書の和訳が多いです。副作用報告書はCIOMSという決まった形式に従っているため、使用される用語にそれほど大きな違いはないのですが、クライアントごとに文体や日付の表記方法などの指定が違うので神経を使います。このほかに、医薬関係の論文を紹介する記事を作成するお仕事をいただいています。

培ってきた獣医師の知識を生かしつつ翻訳者として再スタート

  • これまで手がけられた仕事で、思い出に残っているエピソードはありますか?

    佐古さん

     本来、翻訳は完璧な状態で納品しなければならないのですが、駆け出しの頃あまり時間がなくて「なんだか変だな」と思いながらも納品してしまったことがありました。“arm”という単語だったのですが、提出後にやっぱり気になってよく調べてみたところ、臨床試験などの「群」という意味があることがわかり、あわててメールをして訳語の訂正をお願いしたんです。経験が浅い駆け出しのころは、調査に時間をかける必要があるので、十分な作業時間を取ることが大事だと反省しました。
     それから、学習中に翻訳だけでなくヒアリングの英語教材を学んでいたことが役に立ったことがありました。獣医関係の依頼で、英語での談話会の音声を文章化したものを訳したとき、一部文字起こしがうまくいっていない部分があって、そこはできれば実際に音声を聞いて訳してほしいと言われました。ヒアリングで学んだ経験を生かして、かなり聞き取ることができたと思います。
     一度、クライアントから高い評価をいただいたことをコーディネーターさんが知らせてくださったこともありました。やはり感謝の言葉をいただくと嬉しいですね。次回はさらに良い評価がもらえるように頑張ろうと、やる気がわいてきます。

  • 翻訳をする際、気をつけていることは何ですか?

    佐古さん

     長く翻訳をやっていると自分なりの文体が形成されてきますし、こだわりも生まれてきます。しかし、特に差分翻訳(新版で追加・変更された文章のみを対象とした翻訳)では既存の文章表現に近づける必要があるので、あくまでクライアントの要求に応えることを優先し、自分のスタイルにこだわりすぎないよう気をつけています。
     また、頻繁に登場する重要語は、もし定訳が見つからなくても、Wordの置換機能などを用いて一つの訳語に統一しておくよう心がけています。原語と訳語が一対一の対応になっていれば、後でもっと適した訳語が見つかった場合に一括置換できるからです。

  • 通信講座マスターコース「メディカル」を担当されますね。どのような内容になるのでしょう?

    佐古さん

    薬学

     課題には、実力があれば新人でも参入しやすい、治験実施計画書、治験薬概要書、医薬品添付文書、副作用報告書といった医薬品関連文書を取り上げたいと思っています。こうした文書に慣れ、頻出用語の訳語がパッと思い浮かぶようになっていただければと思います。また、実務文書ですので、情報が誤解なく伝わる簡潔でわかりやすい訳文が書けるようになるお手伝いをしたいと思っております。

  • 「情報が誤解なく伝わる簡潔でわかりやすい訳文」を書く秘訣のようなものはありますか?

    佐古さん

     基本的なことですが、何行にもわたるような長い文はなるべく切るようにしています。それから何についての文なのかすぐわかるよう、トピックとなる言葉をなるべく文頭にもってくるようにします。ただ、英語と日本語では文章の構造が異なりますので、いったん原文に近い順序で訳し、それから日本語としてわかりやすくなるよう配置換えをします。私のやり方は一つのサンプルにすぎませんが、講座の中で皆さんに詳しくお伝えしたいと思っています。

  • 通信講座など独学が得意だった佐古さんですが、翻訳の学習に役立った書籍をいくつか教えていただけますか?

    佐古さん

    『日本語の作文技術』(朝日文庫)は定番だと思います。実務文書はわかりやすくなくてはなりませんが、そのための方法として、修飾語の順序、句読点の打ち方、漢字とカナの使い分け方などが解説されていて、とても参考になります。それから、英訳を独学したときにテキストとして使ったのが『英語らしい英文を書くためのスタイルブック』『英語ライティング講座入門』(研究社)です。どちらも英文と日本文の違いについてわかりやすく説明されていておすすめです。英作文のテキストを学ぶと、自然な英語と自然な日本語との間に隔たりがあることがわかり、和訳にも役立つように思います。

翻訳は「習うより慣れろ」

  • ところで、佐古さんは「プレミアム医学英語教育事務所」という団体のメンバーとして活動されているそうですね。これはどのような団体なのでしょうか?

    佐古さん

    「プレミアム医学英語教育事務所」の主催は、「マスターコース「メディカル」」を受講したときにお世話になった西村多寿子先生です。受講後もメールで自主学習の仲間に誘っていただいたり、仕事の相談にのっていただいたりして交流がありました。そんな縁で事務所立ち上げの時に声をかけてくださり、参加させていただくようになりました。西村先生には仕事に対する姿勢などで大きなアドバイスをいただいてますし、西村先生を通して知り合った他の翻訳者さんから刺激を受けたりもします。私の場合、一人で仕事をしていると現状維持でいいという気持ちが強くなってしまい、チャレンジ精神がどんどん薄れていってしまうのですが、他の翻訳者さんががんばっている様子を知ると、もっと上を目指さなくてはと思います。ヤル気のガソリンみたいなものですね。

  • 自宅で仕事をするフリーランスの翻訳者は、子育てや家事との両立も大変ではないかと思いますが、標準的な1日のスケジュールはどのような感じですか?

    佐古さん

    佐古さんが愛読するエクササイズ本

     朝、子供を送り出してから家事を済ませて仕事をし、昼前に買い物や外出の用事を済ませます。昼食後は15時まで仕事、1時間休憩して16時から18時まで仕事、その後家事をして夜に1~2時間仕事というサイクルです。土日は休むようにしていますが、忙しい時は仕事をすることもあります。1時間半~2時間仕事をすると集中力が切れるので、家事やエクササイズで気分転換をしています。仕事が忙しい時は、朝食を作る前に1時間程度仕事をしたり、土日のどちらかに仕事をいれたりして対応しています。ただ、毎日仕事をしているとだんだん集中力が落ちてくるので、なるべく週1日はまったく仕事をしない日を作って気分をリセットするようにしています。
     それから、デスクワークはどうしても体重が増えたり体力が低下したりしがちなので、健康にはけっこう気を付けています。健康を害して納期に間に合わなくなったら大変ですからね。毎朝散歩したり、週1回なぎなたの稽古に通ったり、ときどき山に登ったりして、無理のない範囲で体を動かすようにしています。

  • なぎなたとは珍しいですね。

    佐古さん

     息子が小学校入学を機に剣道を始めたので、私も何か武道をやろうと思いました。同じ剣道ではつまらないと思ったので他にないか調べたら、当時住んでいた岡崎市でなぎなた教室を見つけました。なぎなたには、いろいろな型があるので飽きないし、審査や試合に向けて頑張ると終わった後に充実感が味わえます。始めて1年くらいは稽古後によく腰が痛くなりました。きっと体が歪んでいたんですね。今では腰痛はなくなり、「姿勢がいいね」とほめられるようになりました。

  • 最後に、メディカル翻訳を学習中の皆さんにメッセージをお願いします。

    佐古さん

     翻訳は孤独で地道な作業です。同じような文章ばかりで嫌になることもありますし、あまり興味のない分野の依頼でなかなか作業が進まないこともあるかもしれません。でも、翻訳を通して病気や薬剤の知識が増えるという楽しみもあります。また、クライアントに感謝していただいた時は喜びもありますし、次の仕事にもつながります。翻訳は「習うより慣れろ」です。ある程度習ったら積極的にさまざまな案件にチャレンジして、頼りになる翻訳者を目指してください。

【編集後記】
地方在住で、仕事や子育てをしながらの学習。きっと想像以上に大変で、自身のモチベーションとの闘いがあったことと思います。学習によって身につけた翻訳テクニックはもちろんのこと、それをやり遂げた自信が今の仕事を支えているのではないでしょうか。

佐古 絵理<さこ えり>さん
プロフィール
佐古絵理さんのプロフィール写真

医薬翻訳家。獣医師。動物病院での勤務を経て医薬翻訳に転向。2008年にJTFほんやく検定1級を取得(医学・薬学分野の和訳および英訳)。現在は主に治験に関する各種計画書・報告書などの医薬品関連文書の和訳を行う。その他、獣医学関連文書の和訳や医薬論文紹介記事の執筆も行なっている。

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