翻訳インタビュー「トランスポット」

   

出版翻訳家
柿沼瑛子さん

大事なのは価値のある文章を作ることと
たくさん訳すための翻訳筋をつけること

さまざまジャンルを訳されているからこそ感じる各ジャンルの特徴と共通する基本についてや、出版翻訳デビューするために必要なことなどをお話いただきました。

人違いが翻訳家デビューのきっかけ

  • 翻訳者になったきっかけは?

    柿沼さん

     特に翻訳者を志していたわけではないんだけど、本は好きでよく読んでました。大学ではワセダミステリクラブに所属していて、出身者は北村薫さんなど作家が多くいます。当時はミステリの評論家や翻訳者が多くて、先輩がリーディング用に出版社から預かってきた洋書をこっそり読ませてもらったり、原書に触れる機会も多かったですね。
     卒業後に就職した靴の小売店は3年で辞めて、そのあと官公庁のアルバイトをしていた頃に、クラブの先輩を通して雑誌の書評を書かないかと声をかけていただいて、20代女性をターゲットとした雑誌『オリーブ』『Hanako』で後輩の女の子と2人で4年ほど書評欄を担当していました。でも編集長が変わったタイミングでライターも入れ替えになり、副収入が途絶えてしまったんです。ちょうどその頃、登山に興味を持ち始めたばかりで、道具を揃えたり、山岳会の会費を払ったり、交通費が掛かったりでお金が必要で、何か次のアルバイトはないものかと探していました。そんなとき、クラブの創成期の大先輩、翻訳家の仁賀克雄さんから下訳をやらないかとお声がかかったんです。これは大チャンスですよね。断る手はないと、喜んでお引き受けしました。

  • ただ、実はこれが人違いだったとか?

    柿沼さん

    『わが愛しのホームズ(新書館)』の書影

     当時ミステリクラブの後輩が、勝手にペンネーム「柿沼瑛子」で翻訳作品を同人誌に発表していて、それを見た仁賀さんが、勘違いして私に声をかけてきたと。
     まあ、きっかけはどうあれ下訳を始めたわけですが、それまで長編の翻訳なんてしたことがなかったから、もう大変でした。まずペースが掴めないし、できると思ったところも全然できない。カナヅチのまま崖から海に放り出された(自分から飛び込んだのですが)状態です。ただ、このときの経験がすごくいい勉強になりましたね。わからないところが出てくると、すでに翻訳家でデビューしていた後輩の宮脇孝雄さんを捕まえて聞きまくりました。わからないところをまとめて持っていくと、丁寧に教えてくれました。あの窮地を乗り切れたのは、彼のおかげですね。
     3カ月の予定の下訳は結局5カ月かかってしまい、迷惑をかけたんですが、なんとかお眼鏡にかなったようで、次からは下訳ではなく自分の名前で1冊任されるようになりました。それが私の翻訳家デビューです。

  • 初めての長編の翻訳で認められたというのは、すごいことですね。

    柿沼さん

     やはり、書評を書いていた経験が生かせたんだと思います。文章を書いて、人様に見せてお金をもらうわけですから、独りよがりではいけない。ましてや読者が若い女性で、どんな文化レベルの人が読んでもわかるように書かなければいけなかったので、あのときの文章を書く訓練が役に立ちました。当時は作品を取り上げた作家さんから「よくぞ、ここまで読み込んでくださいました」という嬉しいお手紙をいただいたりしていましたから。
     学生時代に本をよく読んでいたのは、あれは翻訳のためではなく読むのが好きだから読んでいたわけだけど、自分で好きになれるものを探して欲望にまかせて(?)読んでいくと、熱い思いがある分、言い回しや文章自体もどんどん吸収できてしまうんですよね。この読書体験も、間接的には役に立っていたのではないかと思います。

ゲイ文学の翻訳

  • デビュー後はいかがでしたか?

    柿沼さん

    『リプリーをまねた少年(河出書房新社)』の書影

     当時はホラーブームで、朝日ソノラマのソノラマ文庫シリーズの仕事がしばらく続きました。デビューは『月を盗んだ少年』(デイヴィス・グラッブ著)という作品です。ホラーは特に得意だったわけではありませんが、その後に訳したロバート・ブロックやクラーク・A・スミスはもともと好きな作家だったので、喜んで訳しました。
     下訳も含めて3年ほどは官公庁のアルバイトと翻訳の二足のわらじでやっていたのですが、だんだん疲れてきて……。家の事情もありましたし、平日は9時から5時まで働いて、山岳会の集まりに出かけ、月に2回は山登りに行って。山に行くために車の免許が必要だと、教習所に通っていたし。これでよく3カ月に1冊訳していたなぁと。若さでしょうか。今では絶対に無理ですね(笑)。まあ、そんな調子で疲れてしまって、アルバイトを辞めて翻訳専業になったんです。専業になった頃の年収は78万円。親元で暮らしていたからこそできたというわけです。

     ところが専業になって間もなくソノラマ文庫シリーズが終わり、仕事がなくなって困ってしまって……。ですが、ライター時代に出版社の編集者さんと知り合いになっていたので、いろいろと紹介していただいて、社会思想社の教養文庫のゲームブック、早川書房のモダンホラーのシリーズを訳させていただいたりしました。その後は、ゲイ文学が中心になります。

  • ゲイ文学を翻訳するようになったきっかけは?

    柿沼さん

     もともとこのジャンルが好きで、澁澤龍彦や森茉莉などの作品をよく読んでいたんです。学生時代には萩尾望都や竹宮惠子らの漫画家が登場して人気を博していました。まわりの編集者にもゲイ文学に興味のある人たちが多くて。やはり早稲田ミステリクラブ出身者の佐川俊彦氏が当時編集していた専門雑誌『JUNE』の誌面で、私が「ゲイ文学洋書ガイド」を始めたのが、ちょうどゲイブームの始まりの頃で、その後は知り合いの編集者から依頼が来て、ここで紹介した洋書を片っ端から訳させてもらいました。ブームは3年ほど続きましたね。
     で、このブームが終わったあとです。私が始めてミステリを訳したのは。もともとミステリが好きだったのに、翻訳を始めて10年目にしてようやくミステリ作品の依頼があったんです。ハヤカワポケットミステリの『稲妻に乗れ』という作品でしたが、このときは嬉しかったですね。デビューがホラーだと、どうしてもそのジャンルが続いてしまうんですよね。

     ロマンスを訳すようになったのはそれよりもさらに後で、2000年以降です。クラブの先輩で遊牧社という編集プロダクションをなさっている方がいて、お話をいただいてハーレクインを訳したのが最初です。しばらくロマンスのブームが続き、ノーラ・ロバーツなども訳しましたが、最近はブームのときほど多くはなく、他にはミステリやSFなどを訳しています。

ロマンス特有の言葉の選び方

  • ホラー、ゲイ文学、ミステリ、ロマンスなど、さまざまなジャンルを訳されていますが、それぞれの分野に違いはありますか?

    柿沼さん

    『キャロル(河出文庫)』の書影

     いちばん特徴的なのはロマンスですね。言葉の選び方にロマンス特有のルールがあります。顕著なのがベッドシーンですが、女性が訳しても男性目線になってしまいがちなんです。エロチックに表現するのと男性目線でいやらしいのとはまったく違います。でも日本の場合、普段目にするものの多くが男性目線の表現になっていて、それがすり込まれてしまっているのでしょう。例えば「みだらな」ということばはロマンス小説ではNG。男性側から見た表現ですよね。ロマンス小説なら例えば「艶っぽい」「麗容な」といった言葉の方がしっくりくるんです。
     ヒーローの容姿の描写が延々と続くこともロマンス小説では多いのですが、日本語には男性の美しさを形容する語彙が少なく、たいていの場合「男らしい」「雄々しい」で済まされてしまっているんですよね。そこを、言葉をひねり出してうまくアレンジしていかなければなりません。

     それからホラーの場合は、まだ学習歴が浅い人が訳すと、感覚を表す形容詞がなかなか出てこないようです。痛み、苦しみ、恐ろしい、そういった感覚を表す言葉の語彙が少ないんです。思いつかないから、何度も「不吉な~」「不吉な~」「不吉な~」と続いてしまったりして。だから類語辞典を引くことを勧めています。でも結局のところは、語彙というのは今までの読書量がものを言うんですよね。読書で貯めこんだ中から、う~んと考えて絞り出すと、ぽんと言葉が出てくる、というようなところがあるので、やはり日ごろからたくさん本を読んでおくことが大事になります。

     SFやファンタジーになると、日常にはない語彙が出てくるので、想像力を養ういい勉強になると思います。架空の王国で、架空の法律があって、独自の世界が出来上がっていますから想像するしかない。ある魔法が出てきたら、どうすれば、どんなことが起きる魔法なのか、誰も経験はないわけだから、想像しなければならない。ジャンル別にというと、細かいところではこのようにいろいろとありますが、しかしそれは枝葉の部分であって、結局どんなジャンルであっても基本はみな同じだと思います。

  • どんなジャンルにも共通する基本というと?

    柿沼さん

     自分で読んで"つっかえない"文章にしなさい、ということです。よく、自分の書いた文章を人に読んでもらうといい、と言われますよね。いいことだとは思いますが、受講生の方はみなさん嫌がります。私も昔やってみたけど、あまりにも酷評されてイヤになった経験があるから、その気持ちはわかります。家族や友人だと遠慮がなさすぎてダメみたいですね。見せるなら、ちょっと遠慮しながら批判してくれる"同僚"くらいがいいかもしれません。
     それから、受講生の訳を見ていると、「視点」で躓く人が多いように思います。この文章ではAさんの目線で書かれているのに、こっちになるとBさんの目線になっている。日本語の場合は、誰かに視点が定まっていないと、まとまりがつかなくなってしまうのですが、そういうところは自分で書いていても気付かないようです。
     すべての翻訳に言えることですが、読んでもらって、お金を払っていただくわけですから、それだけの価値のある文章を作らなければなりません。自分の書いた文章を何度も読んでみて、少しでもおかしいなと思ったら、だいたいそこは間違えていることが多いので、もう一度見直してみることですね。

出版翻訳家を目指して学習中の方へメッセージ

  • 現在、出版翻訳家を目指して学習中の方へメッセージをいただけますか?

    柿沼さん

    『聖なる槍に導かれ(ヴィレッジブックス)』の書影

     細かく文法をひもとくことも大切ですが、分量を訳すトレーニングを積んでほしいと思います。今、講座では課題として1週間に原書3ページ分を訳してもらっていますが、プロになると最低でも週10ページは訳さなければなりません。それに、前に訳した分の校正が重なったりもしますから、ノルマはかなり厳しいです。授業で課題の訳例をもらったら、自分の訳と比べて赤を入れて……、と丁寧に復習している人もいますが、それよりも課題3ページが終わったら、もっと先までどんどん訳すことの方が大事だと私は思います。大量にどんどん訳していくうちに読解力もついてくるし、文法も自然に頭に入ってきます。特にデビューを意識するレベルになってきた人は、スピードを意識してたくさん訳す訓練をしてください。翻訳筋はトレーニングを怠ると衰えますから、毎日鍛え続けることが大事です。

     それから、デビューしてしまうと忙しくて時間が取れなくなるので、今のうちに本を読んだり、趣味を広げたり、そういうこともしてほしいですね。受講生さんから「どんな本を読めばいいですか?」と聞かれることがありますが、自分が好きな分野の翻訳書ベストテン、日本人作家のベストテン、具体的には『このミステリーがすごい!』あたりは目を通しておくべきだと思います。どんな本が読者に受け入れられているのか、その動向ぐらいはつかんでいないと、ということです。
     テレビドラマも観てください。海外ドラマは時代の空気やファッションを見るには大事ですが、会話を参考にしたいならやはり日本のドラマの方がいいですね。4年程前に放送されていた連続ドラマ『ホタルノヒカリ』で藤木直人さんが演じていた主人公の上司の部長の話し方は、ロマンスのヒーローのセリフそっくりでした。目上の人に対する口調とか、女性が男性に反感を抱いたときの切り口上とか、注意して観ていると、とても参考になります。これらすべては勉強とはいえ楽しい勉強ですよね。課題を訳すのも大事ですが、どんどん本を読んで、どんどんテレビを観てください。

  • 最後に、柿沼先生の今後の目標を教えてください。

    柿沼さん

     ベストセラーになり、映画化されてトム・クルーズが主演するような、そんな作品を訳したい! なんていうのは、翻訳家みなさん思うことでしょうが(笑)。そうですね、今までやりたいことをやり尽くしてきたので、特にはないですね。マーガレット・ミラーの新訳くらいかな。強いていうなら、翻訳だけじゃなく、ライターとか、作家とか、自分で文章を作る方もやりたいかなと。まあ、これからもやりたいことを選んでやっていこうと思います。

【編集後記】
「好きこそ物の上手なれ」という言葉がありますが、読書、登山、音楽等々、柿沼先生が趣味とおっしゃるあれこれは、趣味の範囲を軽々と超えて、広く深く知識が張り巡らされており、どれもプロの域に達しているのに驚かされました。好奇心を原動力に、あんなふうに趣味を極められたらかっこいいなぁ。憧れます。

柿沼 瑛子さん
プロフィール
羽田詩津子のプロフィール写真

出版翻訳家。『キャロル』『リプリーをまねた少年』(河出書房新社)、『わが愛しのホームズ』(新書館)、『聖なる槍に導かれ』『闇の王子と求め合って』『悪しき妖精たちの吐息』『妖しき悪魔の抱擁』(ヴィレッジ・ブックス)、『性の悩み、セックスで解決します』(イースト・プレス)、『未来に羽ばたく三つの愛』『今甦る運命の熱い絆』「ヴァンパイア・クロニクルズ」シリーズ(扶桑社)、『滅亡の暗号』(新潮社)など訳書多数。

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