翻訳こぼれ話

小説、ノンフィクション、児童書……フェローの講師や受講生が手がけた翻訳書にまつわる貴重なエピソードをご紹介。これを読めば本が2倍楽しめること間違いなし!

今回の作品
『冷たい晩餐』

今回は羽田詩津子先生が翻訳を手がけた、ヘルマン・コッホ著『冷たい晩餐』をお届けします。作品の読みどころや翻訳作業で心がけた点などについて、訳者の羽田先生にうかがいました。
  • 『冷たい晩餐』
  • ヘルマン・コッホ【著】羽田詩津子【訳】
    イースト・プレス

    <梗概>

    パウルとその妻クレアはある晩、パウルの兄で、次期首相候補のセルジュ夫妻との食事に出かける。ところが食事が進むにつれ、4人がとんでもない秘密を抱えていることが明らかになっていく。両夫婦の息子たちが、とある事件に関わっていたのだ。公になれば、セルジュの首相就任の夢も塵と消えるのは間違いない醜聞。公表すべきか、隠蔽すべきか。4人が最後に取った行動は……。

グルメ本だと思って読んでみたらイヤミスだった

  • まずは、本書のあらすじや読みどころについて、解説をお願いします。

    羽田先生

     オランダの物語です。兄夫婦と弟夫婦、二組の夫婦がしゃれたレストランで会う約束をしています。弟のパウルが語り手で、レストランに行くまでの経緯、家族の話を小出しに語っていきます。と同時に現在時制では、レストランでは料理が運ばれてきて、そちらにまつわる騒動も引き起こされる。いわば、入れ子のような構造になっているのが、この作品の特徴です。レストランでのできごとも皮肉たっぷりに語られて興味深いのですが、回想部分もどんどん意外な事実が判明してきて、最後の最後まで話がどちらに向かうのかわからない、というのがこの本の魅力だと思います。このタイプの小説を読んだことがなければ、ぜひトライしてみてください。

  • イヤな気分になるミステリー、いわゆるイヤミスにあたる作品ですね。

    羽田先生

     イヤミスだとしても、読後の後味がものすごく悪いですね(笑)それでも、もしかしたらそういう結果もあるかも、と思わせてしまう説得力がある。自分の常識がまちがっていたのか、とすら考えかねません。あとがきに書いたことを引用します。「さらに興味深いのは、物語と並行して現在進行形で描かれるレストランでの晩餐だ。支配人が料理を懇切丁寧に説明し、飲み物を運んでくるたびに、パウルはそれを徹底的に揶揄する。それによっていかにもおいしそうな料理は、滑稽きわまりない嘲笑の対象へと変化し、味わいを失っていく。作者ヘルマン・コッホの手にかかると、高級な料理もカリカチュアライズされてしまうのだ」

  • よろしければ、翻訳を依頼された経緯を教えていただけますか?

    羽田先生

     この本の版権をとった担当編集者は以前の会社に勤務されていたときから知り合いで、わたしがワイン、フレンチなどが好きということをご存じでした。それで依頼されたのだと思います。おそらく美食が出てくるということで。
     でも読んでみて、まったく想像とちがう本だったのでびっくりでした。最初はグルメ本だと思っていたんです(笑)

  • 翻訳作業についてもお聞かせください。さきほども少し伺いましたが、一読したときの印象は、やはり予想外だったのでしょうか?

    羽田先生

     まず通読したとき、「え? これはどう解釈したらいいの?」と茫然としました。 ラストは二度読み返しました。
     で、こういうイヤミス作品なのだとそのとき初めて知りました。シニカルな語り手の視線をしっかりとらえないと翻訳できないなと、少し気を引き締めたのを覚えています。

  • すでに英語版も映画化の話が決まっているそうですが、実際に映像がとても浮かびやすい作品だと思います。翻訳の際は、登場人物に具体的な俳優をあてはめて作業なさったりはしていたでしょうか。

    羽田先生

     特になかったです。でも改めて考えると、パウルはニコラス・ケイジがいいかもですね。兄役はコリン・ファースとか? たいていなんとなく人物の顔を思い浮かべながら翻訳していますが、それを具体的な俳優にあてはめることはめったにありません。よほど「ぴったりだ!」と感じるか、あの映画のあの役だと思わないと。

  • そのほかに、オランダが舞台ということで、英語圏とはちがったおもしろさ、逆に苦労があれば教えてください。

    羽田先生

     オランダの白人優越主義が強烈に感じられる部分がありますね。また登場人物たちがブルジョア階級なので、平均的日本人には違和感があるかもしれません。
     あとはオランダの人名の発音がむずかしく、それはオランダ人の方にチェックしていただきました。ただ、オランダ語→英語→日本語という流れだったので、オランダ語→英語の段階で誤訳があり、それをチェッカーに指摘され直したところがいくつかありました。

  • なるほど、かなり手強い作品だったようですね。この作品を含め、数多くのジャンルを手がけていらっしゃる羽田先生ですが、ジャンルを問わず、翻訳で心がけている部分があれば教えてください。

    羽田先生

     作品の雰囲気を壊さないように、登場人物のイメージを大切に訳しています。とくに会話は重要です。この本の場合は会話部分がかなりあるので、そのあたりに特に気を配りました。当然ながら、登場人物ごとに口調なども微妙に変えています。

  • ありがとうございます。それでは最後に、学習中の方へメッセージをお願いします。

    羽田先生

     今回の本を訳していても痛感しましたが、主人公を中心とする登場人物像がくっきり思い浮かべられないと訳文に苦労します。また、思い浮かべた人物像が実は原文とはずれていては、翻訳として失格です。 というわけで、小説の翻訳とは、すなわち小説を深く読み解くことなので、まず読解力をつけていただきたいと思います。小説として理解できないと、翻訳作業はできません。
     さらに、登場人物や場面を鮮やかに想像するイメージ喚起力を養っていただきたい。そして、それにふさわしい言葉を見つけるまで、とことん悩んでいただきたいと思います。
     仕事にしていると、それほど悩む時間が与えられないので、いまのうちにそんな苦しみを楽しく味わってください。いろいろなジャンルの本を読み、頭の中でイメージをふくらませる練習をしてみるのもいいと思います。

羽田詩津子先生のプロフィール

出版翻訳家。主な訳書に『アガサ・レーズンの不運な原稿』(原書房)、『〈協定〉』『アクロイド殺し』『猫的感覚』(早川書房)、『歴史の証人ホテル・リッツ』(東京創元社)、『夜の動物園』『ハイド』(KADOKAWA)、『毒親の棄て方』(新潮社)など多数。著書に『猫はキッチンで奮闘する』(早川書房)。

<編集後記>

グルメものだと思っていたら実はイヤミス、しかもこういった結末の作品だったとは、先生が受けた衝撃は相当なものだったのではないでしょうか。最後にばかり目が行きがちですが、主人公であり語り手であるパウルの性格が作品を通して徐々に明らかになっていくところも読みごたえじゅうぶんで、読書の楽しさを堪能できる作品でした。 。
(written by Takasaki)

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