ホンヤクこぼれ話
今回は、この秋から通信講座を担当していただいている松井信彦先生が翻訳を手がけた、ロバート・ピーター・ゲイル、エリック・ラックス著『放射線と冷静に向き合いたいみなさんへ』をお届けします。本書に込めた作者の願いから、出版翻訳の仕事が実務翻訳に生きた場面まで、訳者の松井先生にうかがいました。
『放射線と冷静に向き合いたいみなさんへ』
松井信彦【訳】
ロバート・ピーター・ゲイル、エリック・ラックス 【著】
早川書房/1890円(税込)

チェルノブイリや福島の事故の調査にもかかわったロバート・ピーター・ゲイル博士が「一般市民が放射線にかんする正確な科学的知識を持ち、根拠の乏しい意見に振りまわされないようにすること」を目的として書き上げた放射線の入門書にして啓蒙書。放射線のリスクの評価の仕方から放射線の歴史、放射線とがん、遺伝子疾患・出生時障害・照射食品、医療における放射能の利用と被ばく、原子爆弾、原子力発電と放射性廃棄物など、放射線にかんするさまざまなテーマを、信頼できるデータに基づきながら俯瞰的に見渡す一冊。巻末に豊富なQ&Aが用意されているのも特徴。
●訳者の松井先生に聞きました
まずは、本書について紹介をお願いします。
松井
先生:
放射線医学を専門とするロバート・ピーター・ゲイル博士が、医療ノンフィクションやウッディー・アレンの伝記で知られるジャーナリストのエリック・ラックス氏と組んで書いた本です。ゲイル先生はチェルノブイリを皮切りに、世界各地で起きた放射線絡みの重大事故現場にいち早く駆けつけて(東海村や福島の事故に絡んでも来日なさっています)被ばく者の救護活動を行うとともに、その後の長期的な影響の調査にもかかわっています。そのなかで、一般市民が放射線について正確な知識をほとんど持たず、誤った情報が流布していることを憂慮してわかりやすい啓蒙書の必要性を感じたことが、本書の執筆動機になっています。
本書では、原発や原発事故、原爆に関する解説はもちろん、放射能関連の解説であまり扱われることのない、放射線とがん、遺伝子疾患、出生障害、照射食品との関係、健康診断や放射線治療での線量、紫外線をはじめとする電磁波の影響、放射線がらみの爆弾、テロ、事故(原発以外)など、暮らしの中で遭遇しうる放射線関連の話題がひととおり網羅されています。Q&Aもたっぷり用意されていて、内容を整理・確認しやすいのもうれしいところ。俯瞰的・多角的なのが魅力の一つです。
医学が絡む話題では、ゲイル先生の医師としての知識と経験が存分に発揮されています。また、ゲイル先生が深く関わった事故をつづった臨場感あふれる文章、とりわけゴイアニアとチェルノブイリでの事故対応にまつわるエピソードが秀逸で、前著『チェルノブイリ』(吉本晋一郎訳、岩波現代文庫)でもかつて記者だった訳者の吉本氏が「新聞記者も驚かされるような鋭い目で」と情景描写にうなっていますが、その筆致は今回も健在です。
日本人にとって、いまとても注目されるテーマですが、本書の主張はどのようなものでしょうか。
松井
先生
本書には主張というより願いがあります。それは、一般市民が科学的に信頼できる知識と情報を得て、それに基づき利益とリスクを比べて各人の意見をもってほしい、科学的な裏付けの乏しいあやふやな数字や極端な見解に振り回されないようになってほしい、というものです。そのためとして、著者らは科学的に信頼できるデータを選び出しては、現時点で科学的に何が言えて何がわかっていないのか、それらをふまえてどんなリスクと利益の兼ね合いがあるかを解説しています。
本書の翻訳で苦労なさった部分はあったでしょうか。
松井
先生
一般向けということでわかりやすく書かれているので、内容理解の点ではあまり苦労はありませんでした。それより、著者らは結論ありきではなく、科学的に信頼できるかどうかの一点を基準に書いているので、訳文が何かをあおるような感じにならないよう、おおげさな表現にならないよう注意しました。
また訳語の正確性には注意を払い、徹底的にウラ取りしました。その際、ウラ取りの根拠を複数持つ、その中に専門家や該当分野の企業・機関のサイトないし文献を含める、原典がわかるなら必ず確認する、ということを心がけました。また、専門的なことでなくても固有名詞や数字は必ずウラを取りました。
参考にさせてもらった図書やサイトは数知れずですが、主なサイトや書籍を最後に挙げますので、よろしければ参考にしてください。また、自分の過去の訳書も少しばかり役に立ちました。
話は変わりますが、松井先生は実務翻訳と出版翻訳をともに手がけていらっしゃいます。出版翻訳の仕事が実務翻訳に生きていると感じるのはどういった点でしょうか。
松井
先生
まずは日本語の文章力の向上でしょうか。編集者の方々からいただくコメントや指摘は本当に勉強になり、最高の教材として後で復習させてもらっています。最近は実務で発注元から「自然な日本語で」という指示の出ることが多くなり、「出版の経験があるから」と私に回ってくることがあります。
もう一つは解釈の精度の向上だと思っています。初の訳書で担当編集者の方から念入りなウラ取りに基づく指摘をいくつもいただいてウラ取りの重要性が身にしみてから、実務でも念のための確認作業をよくやるようになりました。おかげで誤訳を防げたり、より的確な文体・訳語を選べたりする機会が増えているように思います。作業スピードはぐっと落ちましたが、翻訳品質を維持できているのでしょう、本の翻訳が終わって営業をかけるとすぐに仕事をいただけています(自分の場合、出版と実務の同時進行は無理なので、本を訳すときは実務でお世話になっている会社にその旨を伝えて休業させてもらっています)。
最後に、学習中の方へメッセージをお願いします。
松井
先生
理解して訳すことによって、内容に筋を通すよう努めてください。何度読んでも何を調べてもなかなかわからないこともあるでしょう。ですが、「読書百遍……」とばかりに諦めず原文を何度も何度も何度も何度も読んでいるとふいに「どうしてこんなことを思いつけたのか……」という理解までは残念ながら一気にいかなくても、調べ物や考え方のアイデアが浮かんでくるものです。なので原文を繰り返し読み、よく調べることを心がけてもらえればと思います。
参考:松井先生が挙げてくださったサイトと書籍
サイト:
公益財団法人放射線影響研究所のサイト(http://www.rerf.or.jp/index_j.html)
原子力百科事典ATOMICAのサイト(http://www.rist.or.jp/atomica/index.html)

書籍:
田崎晴明著『やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識』(朝日出版社)
ウェイン・ビドル著『放射能を基本から知るためのキーワード84』(河出書房新社)
リチャード・ローズ著『原子爆弾の誕生』上・下(紀伊國屋書店)
福士政広編『放射線生物学』(メディカルビュー社)
ゲイル、ハウザー著『チェルノブイリ』(岩波現代文庫)
朝長万左男著『45分でわかる放射能汚染の基礎知識』(マガジンハウス)
桜井弘編『元素111の新知識』(講談社ブルーバックス)
松井信彦先生のプロフィール:
実務・出版翻訳家。訳書に『放射線と冷静に向き合いたいみなさんへ』『スプーンと元素周期表』(早川書房)、『元素のひみつ』(小学館の図鑑たんけんNEO!)、共訳書に『元素をめぐる美と驚き』『素晴らしき数学世界』『不可能、不確定、不完全』(早川書房)など。
松井先生、ありがとうございました。
わたし自身が「科学的な知識を持たない一般市民」だったこともあり、本書を読んで目を開かせてもらった思いです。恥ずかしながら、「なぜたばこががんのリスクを高めるのか」の正確な理由や、「がんが放射線によって発症する仕組み」といったことも今回はじめて知りました。
また、実務翻訳でも自然な日本語を求められる案件が多くなっているという話は、個人的にも近ごろ耳にしたばかりだったので、松井先生から今回うかがい、やはりそういった傾向があるのかと感じさせてもらいました。そもそも実務・出版とかっちり区切って考える必要はないかと思いますが、それでも松井先生のように、両方を手がけていることが根本的な訳文の質の向上につながれば理想的ですね。

(written by Takasaki)
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