ホンヤクこぼれ話
今回は、加賀山卓朗先生が翻訳を手がけたデニス・ルヘイン著『夜に生きる』をお届けします。アメリカ探偵作家クラブが主催する「エドガー賞」、その本年の最優秀長編小説賞を受賞した本作について、加賀山先生にうかがいました。
『夜に生きる』
加賀山卓朗【訳】、デニス・ルヘイン【著】
早川書房/1890円(税込)

禁酒法時代のアメリカ、ボストン。無法者の少年ジョー・コグリンの人生は、強盗に入った賭場でエマ・グールドという女と出会ったことで一変した。エマを巡り、街を二分するギャングのボス、アルバート・ホワイトと対立したジョーは、罠に嵌められてエマを失い、刑務所へ収監される。しかしそこで、ペスカトーレという別のギャングの大物に才能を見込まれ、組織でのし上がっていくジョー。刑務所の囚人から灼熱のタンパの帝王へ、激動の時代を己の才覚だけを頼りに駆け抜けた男の年代記。
●訳者の加賀山先生に聞きました
まずは、本書について紹介をお願いします。
加賀山
先生:
1919年に実際に起きたボストン市警のストライキと、そこから生じた市内の大暴動を大きな背景として、ある警官の一家をめぐる人間模様を描き出した歴史大作『運命の日』の続篇です。本書『夜に生きる』では、一家の三男ジョーが、その後の禁酒法時代に、街のチンピラからギャングの首領へとのし上がっていきます。舞台もボストンからフロリダ州タンパ、そしてキューバに移ります。
家族のほかのメンバー(とくにボストン市警の幹部である父)も出てきますが、ほとんど登場人物はダブっておらず、ほぼ全体がジョーの一代記、成長物語ですので、『運命の日』を読んでいなくても問題なく愉しめます。禁酒法時代のギャングというと、『アンタッチャブル』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』といった映画を思い出すかたもおられるでしょうが、あのようなアクションに加えて、ルヘインならではの情感あふれる場面が次々と出てきて、リーダビリティは彼のこれまでの作品のなかでも抜きん出ていると思います。ギャングものの定型をとりながら、中身は新しい。この方面にご興味があったら、ぜひ手に取ってみてください。
デニス・ルヘインという作家についても聞かせていただけますか?
加賀山
先生
ひと言で言えば、この人の小説には「心」がある。心の深いところで同調できる。喜怒哀楽を感じる場所が似ている気がする。そう感じさせる力があります。
小説技法的には、さまざまなもののにおいや、何かに触れる感じなど、五感を(あるいは第六感も)駆使した表現が多い。漫画の擬音語として出てくるような単語を、動詞として頻繁に使ったりもする。たとえば本人のフェイスブックの投稿などを読んでも、ありきたりのことを書いているのにやたらとかっこいい。要するに文章がうまいのです。そこに、数々の職業を経験して培った観察眼や人間観が加わりますから、無敵です。「ザ・小説家」。褒めすぎですね。
私立探偵パトリックとアンジーのシリーズ、『ミスティック・リバー』、『シャッター・アイランド』、短篇集『コーパスへの道』、そして『運命の日』、『夜に生きる』と、この作家には、あえて同じジャンルのものを書くまいとしている姿勢が感じられます。『夜に生きる』も、まさかギャングものになるとは思いませんでした。一応、アメリカの歴史3部作という構想を持っているようですから、少なくとももう1作はこのつながりで出てくると思いますが、誰が主人公で、どんな話になるのかは想像がつきません。冗談かもしれませんが、作者は何かのインタビューで、10連作になってもおかしくないと語っていました。
私がルヘインを訳すようになったのは、出版社に声をかけていただいたからですが、『ミスティック・リバー』を初めて訳して、どうしても翻訳だけに専念したくなり、勤めていた会社を辞めたくらいですから、やはり半端な影響の受け方ではありませんでした。何かの縁があったということでしょう。
本作『夜に生きる』は本年のエドガー賞を受賞しました。感想をお聞かせください。
加賀山
先生
18年小説を書いてきて初めてノミネートされ、それが受賞したのだから”a cool honor”だと本人が言っています。狭義のミステリーではありませんが、一種の犯罪小説としてのレベルの高さが認められたということでしょうね。私も原書を初めて読んだときには、数年に1冊出るか出ないかのすばらしいエンターテインメントだと思いましたが、訳しているうちに客観視できなくなってしまったので、やはりいい作品だったかとちょっと安心しました。
本書の翻訳で苦労なさった部分はあったでしょうか。
加賀山
先生
Q2で答えたこの作家のいいところは、そのまま翻訳がむずかしいところでもあります。非常に感覚的な、しかしすばらしい文章が出てきたときには、どうかこの感じをできるだけ読む人に伝えられますようにと祈りながら訳します。それでもまだ修行が足りませんけれど。
本書は禁酒法時代の話で、『運命の日』ほどではないにしろ、歴史的な事件がいろいろなかたちで盛りこまれていますので、関連する資料や映像はいろいろ参考にしました。個人的にギャングものは映画も小説も好きなので、調べるのはまったく苦になりませんでした、というより、そちらに集中しそうになって困りました。
最後に、学習中の方へメッセージをお願いします。
加賀山
先生
動画やゲームといったほかのエンターテインメントと比較したときに、文字情報だけの「本」という媒体が生き残るには、「日本語の味」が不可欠だと思います。伝える内容がなんであれ、日本語を読んでいる時間そのものが愉しくなければならない。これは自分にもつねづね言い聞かせていることですが、原文を正しく解釈して、正しい訳語を並べれば仕事は終わりと思っていないでしょうか。それは絵にたとえれば、必要な絵の具や筆やキャンバスがそろっただけにすぎません。つまり目的地ではなく、スタート地点です。そこから多くの人の心を動かす絵を描かなければならない。
つまり必要なのは、日本語の文章修業です。好きな日本人作家や翻訳者の文章を徹底的に研究してみてください。翻訳の勉強がある程度進んでいるかたにとっては、かならずそれが突破口になるはずです。翻訳文を読むことが、谷崎潤一郎や、太宰治や、幸田文の文章を読むときのように愉しくてはいけないでしょうか? 私は読者として大歓迎しますけど。
加賀山卓朗先生のプロフィール:
出版翻訳家。『夜に生きる』『運命の日』『ミスティック・リバー』『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』(早川書房)、『ミッション・ソング』『サラマンダーは炎のなかに』(光文社)、『荒ぶる血』『掠奪の群れ』(文春文庫)、『晩夏の犬 ローマ警察 警視ブルーム』『流刑の街』(ヴィレッジブックス)など訳書多数。
加賀山先生、ありがとうございました。
「数年に1冊出るか出ないか」と先生がおっしゃるとおり、理屈抜きで楽しめるエンターテインメント性と、この作家ならではの情感が見事に融合した、まぎれもない名作だと感じました。先生がおっしゃる「文章を読むことの愉しみ」が、この作品には至るところに詰まっています。この素敵な体験をぜひ味わってください。

(written by Takasaki)
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