翻訳こぼれ話

小説、ノンフィクション、児童書……フェローの講師や受講生が手がけた翻訳書にまつわる貴重なエピソードをご紹介。これを読めば本が2倍楽しめること間違いなし!

今回の作品
『新興国マーケット進出戦略』

今回は、上原裕美子さんが翻訳を手がけた『新興国マーケット進出戦略』をお届けします。読者や本の構成を考えた訳文づくりから、レジュメを書くときの心構えまで、訳者の上原さんに幅広くうかがいました。
  • タルン・カナ、クリシュナ・G・パレプ【著】上原裕美子【訳】
    日本経済新聞出版社

    <梗概>

    多国籍企業がブラジル・ロシア・インド・中国などのいわゆる新興国に進出する際、かならず突きあたる「制度のすきま」。物流・決済・インフラ・法律・縁故・政治などから成るその「すきま」の正体を本書は解き明かすとともに、これまで「すきま」を乗り越えてきたマイクロソフト・GM・マクドナルド・タタなどのとった戦略を、総体的戦略と具体策の両面から紹介する。また後半では、新興国の大企業(エマージング・ジャイアント)が母国、さらには海外で成功を収めるための方策も紹介する。

『新興国マーケット進出戦略』は、アカデミックな内容と一般書としての読みやすさを併せ持つ作品

  • まずは本書『新興国マーケット進出戦略』の内容について紹介をお願いします。

    上原先生

     現代の経済やビジネスを語るうえで、いわゆるBRICsに代表される「新興国市場」に触れずに通ることは不可能です。でも、「新興国市場」の定義とは何なのか。貧困であることなのか、技術的に遅れていることなのか。インドやアフリカ、中国が持つ技術力、ビジネスの勢い、財力や影響力を見れば、必ずしも「発展の遅い」「発展していない」などという定義ではくくれないと感じます。本書が提示する新興国市場の定義は、「制度のすきま」があること。発展した市場でものを買う買い手と売り手とのあいだには、その取引を支える多くの「制度=仲介業者」が介在し、円滑でコストの低い取引を実現するとともに、その仲介業自体も大切なビジネスとして成立し、全体として大きな市場の生態系を形成しています。ところが新興国の場合、ものを売りたい側と買いたい側をスムーズに引き合わせる制度が未発達であるために、市場が非効率になっている。あるいは外部からの参入を阻んでいたり、外部への進出を難しくしたりしています。
     ただし、それは必ずしも弊害ではありません。その「すきま」を的確に見抜き、首尾よく回避したり埋めたりすることのできる才覚があれば、「すきま」はビジネスチャンスとなります。競争上の不利がそのまま競争優位となることもあります。先進国企業が新興国と呼ばれる国にビジネスを展開する際にも、新興国と呼ばれる国の企業が世界にプレゼンスを広げる際にも、「すきま」に対する理解が成功を左右する。本書では、数多くの企業を挙げて、その成功例や失敗例を詳細に考察しています。

  • 『新興国マーケット進出戦略』はどのようなタイプのビジネス書で、どういった読者をターゲットにしているのでしょうか。

    上原先生

     著者のふたりがハーバード・ビジネススクールの教授で、本書のベースとなる論文も『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌に掲載されたものなので、ある程度はアカデミックな位置づけにある本だと思っています。一方で、原題のサブタイトルが「A Road Map for Strategy and Execution」であることからわかるとおり、企業の海外進出にかかわる読者にとって具体的な参考になるよう書かれてもいます。ですので、研究者や経営者としてはもちろん、世界の経済やビジネスがどう回っているかを理解したい消費者、「新興国市場とは何か」「なぜあの企業はこんなに急に台頭できたのか」などと不思議に思う消費者としての立場でも、じゅうぶんに興味深い本です。そうした様々な視点から読める本だと感じましたし、そういう訳書にしたいと思いました。

  • 翻訳で苦労した点はどこでしょうか。

    上原先生

     前半は、本書の基盤である著者ふたりの考察をしっかり展開する部分なので、辛抱強くかっちり訳さなければなりませんでした。後半は具体的なケーススタディが多くなり、そこでは前半で述べた考察を何度もなぞり直して固めていくのですが、そもそも前半で一定の理解が定着していなければ、さらに深めることはできないわけです。とはいえ、あまりに易しく解説してしまおうとするのは、原文にも読者にも失礼だと思うので、変な意味でかみくだきすぎないように意識しました。
     一方で、後半のケーススタディは、具体例ならではの面白さを損なわないように、また新興国という話題がもつ勢いのよさ、スピード感みたいなものも出せたら、と思っていました。
     特に前半、議論が具体的に動き出すまでの文章を訳すのは結構しんどかった記憶があるんですが、正直に言うと、「翻訳で苦労した点」は終わると忘れちゃうんですよね(笑)。もちろん自分の力不足を痛感する場面は多く、反省点も多々あるんですが、この本は当初から、いい意味で、信頼する編集者さんの力に頼ろうという気持ちがありました。背伸びや小細工で破綻するようなことにはしたくないので、ベストを尽くした上で引っ張りあげてもらおうと。そういう意味ではとても安心して臨みましたし、実際ずいぶん助けていただいて、自分の力以上の仕上がりになったと思います。

  • ちなみに、本書『新興国マーケット進出戦略』の翻訳はどのような経緯で依頼を受けたのでしょうか。

    上原先生

     以前の本で縁のあった編集者さんが、この本のリーディングで声をかけてくださいました。嬉しかったですし、本も面白かったので、ぜひ仕事につながるといいな、と思いました。リーディングから実際の翻訳が始まるまで、半年くらいだったと思います。

  • 本書は出版社さんからのリーディングの依頼が翻訳へつながっていったとのことですが、上原さんご自身から出版企画の持ち込みをされ、出版につながった案件もあるとうかがっています。持ち込みの際に心掛けていることはありますか?

    上原先生

     ニーズがあるか、マーケットがあるか、ということも大事だと思うのですが、自分から発掘して持ち込むときの最大のポイントは「自分が本当にいいと思うか」という点だと思っています。当たり前のことかもしれません。でも、特にまだ駆け出しの翻訳者が持ち込みを考えるときは、チャンスをつかみたいという野心や射幸心みたいなものが少なからず介在しているので、知らず知らずのうちに媚びる気持ちやおもねる視線が入り込みがちだと思うんです。あるいは、「別に好きではないけど売れそうな本ならいいんでしょ」という考えで企画書作成に取り組んでしまうかもしれません。でも、そんな浅はかな気持ちは当然見透かされますし、編集者さんに失礼ですし、何より自分のモチベーションが保てない。本気でいいと思っていないものを推すのは、自分にとってつらいことだと思うんです。
     自分がいい本だと思っていれば、欠点も客観的に分析できますし、大げさにほめ立てなくても長所を伝えられます。逆説的かもしれませんが、自分がいいと思っている本のほうが、提案して却下されても、精神的にあまりショックではない気がします。持ち込みは頼まれもしないのに勝手にやるわけですから、自分が好きじゃないとやっていられないです(笑)。

  • 最後に、翻訳を学習中のかたへメッセージをお願いします。

    上原先生

     翻訳は質より量とスピードだ、などと言うつもりはないのですが、量とスピードを高めることを意識して翻訳するのは、学習中も有効な戦略だと思います。もしかしたら唯一の確実な戦略かもしれません。毎日の作業のスケジュールと、実際にこなした量や時間を記録しておくと、自分自身のキャパシティの把握に役立つと思います。

上原裕美子先生のプロフィール

出版・実務翻訳者。主な訳書に『人生は手放した数だけ豊かになる』(三笠書房)、『世界の一流企業は「ゲーム理論」で決めている』(ダイヤモンド社)、『EXTREME TEAMS アップル、グーグルに続く次世代最先端企業の成功の秘訣』(すばる舎)、『壊れた世界で“グッドライフ”を探して』(NHK出版)、『♯HOOKED 消費者心理学者が解き明かす「つい、買ってしまった。」の裏にあるマーケティングの技術』(TAC出版)など多数。

<編集後記>

上原先生、ありがとうございました。今回とりあげた『新興国マーケット進出戦略』ですが、外国人との交渉や、現地状況に応じた臨機応変な対応に難のある(イメージが強い)日本企業にこそうってつけの本なのではないでしょうか。多分に趣味的な話になってしまい恐縮ですが、Jリーグは数年前から東南アジアを有力なマーケットと見込んで進出をはかっているものの、現地への浸透は遅々として進んでいません。ぜひJリーグの幹部も、本書を読んで現地マーケットにおける「すきま」を特定してもらいたいものです。
(written by Takasaki)

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